1名の残らなかった女性이름이 남지 않은 여인
有田焼の祖として名高い李参平と、時代を同じくして生きたひとりの女性がいた。
1500年代の末、朝鮮から渡ってきたのち、九州で数百人の陶工を指導し、有田焼の創業に力を尽くした。けれどその名は長い歴史の間に埋もれ、人の口から語り継がれることはほとんどなかった。資料も文献も残らず、本名ですら定かではない。
容貌が温和で長寿を保った彼女を、子孫は敬愛の念を込めてこう呼んだ。百婆仙(ひゃくばあせん)。
2018年4月29日除幕
2文禄の役임진왜란
中国、上海の南に寧波という港町がある。奈良時代から、大陸に渡る日本人の上陸地として知られた。1592年4月13日、この地を終の住み処と考えていた豊臣秀吉は、明を征服する野望のもと「仮道入明」の旗を立て、小西行長軍1万8千余人を先陣に釜山へ上陸させ、瞬く間に占領した。
有田の周辺からも駆り集められたであろう兵を連れ、鍋島直茂、加藤清正の軍2万2千余人は慶州へ。日本軍15万8千余人が次々に上陸し、京城をはじめ全国の都市も農村も灰となり、ほとんどが焦土と化した。文禄の役である。
当時の日本側の記録「吉野甚五左衛門覚書」には、切り付け打ち捨て、踏み殺し、女も男も犬も猫もみな切り捨てて戦神の血祭りとした、とある。歴史の波に飲み込まれ、多くの朝鮮の人々が犠牲となり、多くの日本兵も戦死した。
3武雄、内田の窯다케오, 우치다의 가마
戦乱をかろうじて生き延びた百婆仙は、夫 宗伝とともに荒れた玄界灘を渡り、異国の地、武雄に着いた。
武雄領主 後藤家信の庇護のもと、徳の厚い広福寺の別宗和尚に癒され、夫婦とその一族は内田の地で器を焼いていたと考えられる。故郷を偲んで有田の朝鮮人陶工たちが登ったという観音山に、いま訪れる人は少ない。
4有田へ아리타로
1616年、李参平が有田の泉山で白磁の原料を見つける。1618年、百婆仙は夫と死別した。
その10年余りのち、1630年、70歳のころに一族を率いて有田へ移り住む。朝鮮通信使が再開され、帰国する朝鮮の人もいた。けれど彼女は1656年に96歳で亡くなるまで故郷に帰ることなく、多くの陶工の頭として有田焼の生産に携わった。有田焼の母と慕われたゆえんである。
5百婆仙という名と、故郷백파선이라는 이름과 고향
百婆仙は、本名ではない。容貌が温和で長寿を保った彼女に、子孫が敬愛の念を込めて贈った呼び名である。有田の報恩寺には、曾孫が建てた法塔が今も残る。
故郷については、韓国の金海市とする説が現在もっとも有力とされる。金海市の研究者による講演では、ふるさとの村と時代背景が語られた。ギャラリーは2016年から金海市との文化交流を続けている。
末裔にあたる深海家は、14代、15代と続いています。
6追慕像と館추모상과 갤러리
2016年は百婆仙の没後360年、そして有田磁器の創業400年にあたった。それまで彼女のことは、あまり語られることがなかった。有田に生きたひとりの女性の波乱の生涯に思いを馳せ、その魂を追慕し讃え、彼女が紡いだ日本と韓国の絆を深めるために、2016年2月、ギャラリー ペクパソンと日韓友好の館 百婆仙を開いた。
2018年4月29日、有田陶器市の初日。ギャラリー前で百婆仙追慕像の除幕式が行われた。像は、日本と韓国で活躍する女性作家たちの手で除幕された。
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